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八の字の巣穴

八の字の巣穴

第八十三話「功刀大介」

 じっと組み合わせ表を見る。
 心臓がやかましい。
 Bブロックには間違いなく『葉渡雄介』の名があった。
 逆から読むと『介雄渡葉』だ。
 そんなことを考えてしまうくらいに頭の中がぐるぐる回っていた。
 辺りでは雨田武士の復帰でしばらく全試合が中断するほどだったが、そんなことも認識していない。
 そんなとき、ぽんと肩を叩かれた。
「よう、何トーナメント表とにらめっこしてんだ?」
「っ!!?」
 びくん、と悠は肩を震わせ、しかし知り合いであることを確認すると無理に心を落ち着けた。
「……神住か……いや、ちょうどいい。あのな、こいつ……」
 雄介の名前を指す。
「……こいつ、もしかしてうちの学校の……」
「はあ? もしかしても何も、同級生の葉渡雄介当人だろ。さっきその辺歩いてたぞ?」
 訳が判らないという顔をしつつも事も無げに答える神住。
 対照的に、悠は目に見えて真っ青になった。
 すっかり凍り付いてしまっている。
「……う」
「う?」
「嘘だろ……?」
「いや、ほんと。っつーか、どうしたんだよ、一体?」
 神住は悠の顔を覗きこむ。
 不機嫌で、群れるのが嫌いで、それでいてあくどさはまったくなく、試合のときはふてぶてしくもある、それが神住の知る烏丸悠なのだが。
 一体、葉渡雄介が出ていることの何がこんなに衝撃だというのか。
 と、悠がぽつりと言った。
「……棄権する」
「は?」
「私は棄権するぞ、神住!」
「いや、そんな力強く宣言されても……っていうか、なんで棄権するんだよ!? 久々の大きな大会だってのに……」
 神住がやや怒気を込めても、悠の迫力はそれを遥かに凌駕するものだった。
「やかましい! 棄権するといったら棄権するんだ! 分かったな!?」
「わ、分かった分かった、分かったってば……」
 悠は神住の返事など聞いていない。
 既に運営本部に向かい始めている。
 取り残された神住は目を点にしていた。
「……何だ、ありゃ……?」
 本当に訳が分からなかった。







「……ひどいご面相ですよ」
 Aブロック二回戦第二試合を前にして、翔子は大介に告げた。
 一言で表しはしたが、大介の顔はあちこちが腫れ上がっている。
 口の中には血の味、鼻腔には鉄錆びた臭い。
 一回戦を勝ち抜くための代償だった。
「身体の方はもっと凄いことになってるでしょう?」
 何も言わない大介に、翔子はなおも言葉を重ねる。
「もう、これくらいで……」
「大介ちゃん!」
 沙菜がひしと大介に抱きついた。
 大介は少しだけ眉に動揺を表したが、すぐに押し殺しながら沙菜を抱き返す。
「……俺はまだ戦る」
「やだよぅ……大介ちゃん、いたそう……」
「……それでも戦る」
 きっぱりと言う。
 翔子はかぶりを振った。
「沙菜さんが嫌がったらやめさせるって、あたし言いました」
 傷ついた大介を見て沙菜が悲しんでいることなど、もう改めて確かめる必要などない。
「だからここでやめてもらいます。もうさっきの試合だけで充分でしょう。何か欠片でも思い出せましたか?」
「まだだ、まだ足りない」
 大介は真っ向から翔子の視線を受け止めた。
「俺はまだ諦めない」
「沙菜さんを守りたいんじゃなかったんですか? それなのに自分で悲しませてどうするんですか!?」
 時折感じる思いが翔子の胸の内に湧き起こる。
 現れ方こそ異なるが、根源を同じくする思いだ。
「守って欲しいなんて思ってるわけじゃないんです、ただ傍にいて欲しいだけなんですから……悲しませるようなことはやめて、沙菜さんの傍にいてあげるだけでいいでしょう?」
「それは駄目だ」
「修練なら、きちんとしてあげますから……」
「そういう意味じゃない」
 大介は強いまなざしだった。
「気合で何もかもが叶うわけじゃないって言うが、それは本当に最後の最後までやったのか? 途中で見切りをつけて諦めただけじゃないのか?」
「そういう問題じゃないでしょう? それを試したいのなら今ここである必要はないはずです。そもそも……」
「待て、翔子」
 反論しようとした翔子を、静かな声が遮った。
 無論、翔子の知った声だ。
「朱鷺子さん……?」
 振り向けば、いつの間にか朱鷺子がそこにいた。
 翔子の隣に進み出て、覇気あるまなざしで大介を貫く。
「功刀大介、今の言葉に偽りはあるまいな?」
 一切の虚偽を許さぬ清冽な空気。
 砂上に造られた思いであれば倒壊してしまうほどに。
 しかし大介は迷わなかった。
「俺は最後の最後までやる」
「ならばやってみるがいい」
 朱鷺子が頷くのもまた、迷いはなかった。
 慌てたのは翔子だ。
「朱鷺子さん!?」
「自らその身で味わいたいというのだ。味わえば嫌でも納得しよう」
 朱鷺子はこともなく言うと、冷ややかと言ってもよいほどの空気で眼を細めた。
「その代わり、己の最奥まで出し尽くせ。一切の弁解などしようもないほどにな」
「分かってる」
 深々と頷く大介。
 それを確かめると、朱鷺子は大介の後ろに回った。
 大介の肩越しに目を覗かせた沙菜と視線を合わせる。
 沙菜はぷいと顔を隠してしまったが、朱鷺子はそのまま言った。
「功刀沙菜。お前には何ができる?」
 当然、答えは返ってこない。
 それでも朱鷺子は続ける。
「功刀大介はお前を守ろうとしている。お前には何ができる?」
「大介ちゃん……」
 沙菜は少しだけ身体を離して大介を見上げた。
 おずおずと大介の顔に触れ、じわりと涙を滲ませる。
「いたそう……」
「朱鷺子さん、沙菜さんに難しいこと言っても……」
 翔子が困ったように言う。
 沙菜の理解力はまだ拙いもの、朱鷺子の言わんとすることをまともに受け止められるとは思えない。
 朱鷺子はちらりと翔子を見たものの、答えることはなく沙菜の横に立ってその腕に手を添えた。
 そして今度は少し言葉を変える。
「お前は何をしたい?」
「……なおしてあげたい……」
 沙菜が呟くように言う。
「いたいのとんでけって……」
「それでいいのだ。少なくとも今はな」
 穏やかな声。
 実際には、沙菜に傷など治せるはずもない。
 が、それでいいのだ、今はまだ。
「想うことが直接の力にはならずとも、無意味でもあるまい。帰ってくることを約束してもらえ。そして帰ってきたら治してやるがいい。だから今は止めてやるな」
「大介ちゃん……」
 沙菜はただただ大介を見上げる。
 大介も見詰め返した。
「沙菜……俺は必ず沙菜のところに帰って来る。だからいい子で見ててくれ。それが……俺の力になる」
「うん……さな、いいこでいるよ……だから……」
「ああ」
 沙菜をもう一度抱き寄せ、その額にキスをする。
「俺はどこにも行かない……」







『二回戦第二試合、ランキング三位、杜若芹VS飛び入り枠の功刀大介!』
「ランキング三位か……ちょうどいい」
 大介は牙を剥くようにして笑った。
 そして芹も、小さく笑った。
「覚えているわよ。五月にもいたわね」
『それでは、始め!!』
 早々の開始宣言。
 仕掛けたのは大介だった。
 昔身体が喧嘩で覚えた動き、大きく拳を引いた状態からの渾身の一撃。
 放った瞬間に弾き飛ばされていた。
「ぐ、が……」
 どっと脂汗が浮く。
 大介には気付けぬほどの速さで水月を突かれていたのだ。
 それを為した芹は少し腰を落とし、軽く握る程度の強さで拳を胸の前に構えてこちらを見ていた。
 大介はすぐさま第二撃にかかる。身体が痛みを感じていようと、意識はそれを認識しない。
「ぉおおおおおおおおおっ!!」
 今度は腰へのタックル。
 だというのに、いつの間にか芹はさらに低い位置にいた。
 地を摺る回し蹴りが大介の足を刈り、バランスを崩したところを下から突き上げられる。
 拳は再び水月にめり込み、大介の口から胃液が溢れる。
 それでも痛みは認識しない。
 捕まえようとした手は空を切り、消えた芹の姿を探す。
 見つける前に脇腹に肘、振り向こうとしたところを左の肩口への撓るような回し蹴りが入った。
「っ!?」
 激痛。
 今度は痛みを認識した。
 左腕で掴みに行こうとして、為せない。
 腕がまともな動き方をしない。
「それが……どうしたよ!!」
 突進。
 全てを出すのだ、この程度で止まりはしない。
 またも衝撃。
 弾かれて転がされて、起き上がる。
「げふっ、ぐ、く、ぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
 傍から見れば、始まって一分も経っていないのに満身創痍にも等しい姿で、追い詰められた獣の如き咆哮。
 一見して、滑稽だった。技も何もない突進を繰り返す大介に失笑が漏れる。
 そんなものが、仮にもランキング三位に効くはずもない。
 笑いも戸惑いもしなかったのは、大介を直接知る者だけだ。
 芹が足を掬ってからの回し蹴りを放つ。
 大介はなすすべもなく転がり、地に伏せる。
 しかしそれも一呼吸のことだ。歪に、右腕で身体を支えながらもゆらりと立ち上がる。
 前髪の下では爛々としたまなざしが芹を睨んでいた。
 ゅぅ、が、ぐぅる、ひぅ、ずぅ
 引き攣ったような呼吸は耳にするだけで不快感を煽り、脱臼してだらりと力なく垂れた左腕がゆらゆらと揺れる。
 大介が牙を剥き出した。
「ぁあああああああああああああああああああああああっ!!!!」
 もう何度目になるのか。
 咆哮とともに行われる突進。
 観衆の大半が息を呑み、背筋に寒いものを覚える。
 ようやく、異様なまでの空気を感じ始めたのだ。
 試合や喧嘩などとは異なる、どぎついまでの殺気。
 しかし芹はまともに触れさせもしない。
 完璧に迎撃してゆく。
 そして大介も、幾度倒れながらも立ち上がった。
「……まだ……まだだっ」
 視界がおかしい。
 ぼやけては元に戻り、またぼやける。
 音も聞こえない。
 だが、それがどうしたというのだ。
 自分はまだ動ける。
 あと少し早く踏み込むのだ。
 あと少し早く殴るのだ。
 あと少し早く見つけるのだ。
 あと少し早く振り向くのだ。
 まだだ。
 まだ足りない。
 沙菜を守るにはまだ足りない。
 あと少し早く。
 あと少し速く。
 既に己の限界は越えている。
 越えてなおさらに先を望む。
 まだ当たらない。
 捕らえられない。
 挑み続ける。
 だが、それは唐突に終わらせられた。
 こめかみに芹の回し蹴りが入ったのだ。
 今までのものとは速さも重さも違っていた。
 それは、大介の意識を強制的に弾き落としていた。







 勝利宣言を受けた後で、芹は試合場を後にした。
 各ブロックの決勝は一つずつなされるので、全ブロックが終了してからになり、少しは時間がある。
 少々憂鬱な気分ではあった。
 泣き叫ぶ少女の声が、まだ聞こえる気がする。
 と、そのときだった。
 小柄な娘が横合いから目の前に出てきた。
 ブラウスにデニム地のスカートと上着姿で、清冽なまなざしで見上げてくる。
「杜若芹殿、程よい手加減、感謝します」
「……あなたは誰なのかしら?」
 どこかで見たような気もしないではないが、すぐには浮かばない姿だ。
 娘は、朱鷺子はそのままの表情で言う。
「功刀大介の関係者、というところでしょうか」
「……なるほどね」
 芹は少し困ったような笑みを浮かべた。
 思い出した。
 試合の前に、対戦者の少年のところにやって来ていた、と。
「見たところ、試合を許したのはあなたのようだったけど……残酷なことをするのね。あの女の子、泣いていたわよ?」
「それは承知の上です」
 非難されても、朱鷺子はややまなざしを細めるくらいしか表情を変えなかった。
「個人情報保持のこともあるので詳しくは語れませんが、今の彼女には残酷なことです。ですが功刀大介には、思いで肉体の枷をひとつふたつ超えてもなお届かぬものが転がっているものなのだと、その身に刻んでもらうよい機会でした」
「女の子の方はその犠牲?」
「そちらにも意味はあります」
 今度の皮肉にも動じることはない。
 一拍おいて、続ける。
「戦わぬならばそれも一つの選択、戦えぬのも場合によっては仕方のないこと。しかし戦うという選択肢の存在すら知らぬというわけにはゆきますまい」
「……あんな子に?」
「彼女は様々なことを習い覚えつつあります。厳しいことではあっても無謀であるとは思いません」
 あまりにもきっぱりと言い切られて、芹は苦笑した。
 むしろ自分こそが過ちを指摘されている気分になってくる。
「……そうね、生きることは戦うこと。そこに異論はないわ。でも涙はちょっと苦手なの」
「そうですか」
 朱鷺子は頷き、軽く礼をした。
「ともあれ、察しのよい方で助かりました。そのお礼を申し上げに参りました」
「いえ、いいわ。私もどうしたものか迷ってただけだし」
 それは本当のことだ。
 功刀大介のあの凄まじい気迫と言っても足りないほどの雰囲気と泣きそうな少女に、どうしたものか迷っていたのだ。
 だから結論が出るまでは手を抜いた。
 そして、勝ちを譲るのは違うだろうと思って決めたのだ。
 朱鷺子は、もう一度一礼した。
「それでは、私はこれで罷ります」
 そしてどこへともなく消える。
 小柄な所為か、本当にすぐに見えなくなった。
 芹はしばしその方向を眺めていたが、肩をすくめると試合場の方へと戻り始める。
「……強い、わね」
 そう、密かに呟いた。










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